スクールダイアリー

12月17日(火)全校朝礼 待降節に寄せて③

最後に「愛」について話します。最近映画となったボヘミアンラプソディで再注目を浴びた伝説のロックバンドQUEENですが、1985年に出された「Born to love you」という曲があります。出だしから「I was born to love you!」とはじまります。訳は「俺はお前を愛するために生まれた!」という言葉が歌い出されます。今は亡き、ボーカルのフレディ・マーキュリーの声も力があります。私にとって、「愛するために生まれた・・・」という言葉自体がとてもインパクトで、若い頃はドキドキする歌詞でした。
結婚して、子育てや仕事に邁進して、多くの方々との関りを大事にして生きていく中で、得たもの失ったものも体験して、今は曲が別の意味に聞こえてきます。確かに曲の中で、「お前を幸せにするために生まれた」とか、「俺はお前のものだ」とか、「俺はお前のエクスタシーだ」とか、歌は口説き文句にしか聞こえません。しかし、ある夜に久しぶりに、CDをかけて一人で聞いたとき、「born to love」、「愛するために生まれた」という言葉が妙に響きました。そして、「愛するために生まれたと言えるなんてすごいな・・・」と思った瞬間、「あ、イエスも同じだ! あ、クリスマスだ!!」ととっさにひらめきました。私は悟ったような思いにひたり、しばらく歌を聞きながら涙が出てきて仕方がありませんでした。
フレディが、「クリスマスは愛が生まれた日」だということを気づかせてくれたのです。信仰、希望、愛と、頭では知っていたのですが、フレディの歌声を聴いてはじめて、知識を超えて深く知る体験をしたと思いました。知り得たことが感動的で何とも熱く心に響きます。このような受け止めをPASSION(熱情)というのでしょうか。日本人的に言うと、神仏へのかたじけなさかというのか、慈しみや思いやりや優しさを得たという表現なのかもしれません。とにかく心が温まる神からのメッセージです。
一体、「愛」とは何でしょうか?皆さん、この機会にお互いに考えてみるのもいいかもしれません。何でも願いを聞いてくれることが愛なのでしょうか。好きな人に愛を示すことは簡単でしょうが、嫌いな人間を愛することは簡単ではありません。それは無理に限りなく近く、とても勇気が要ります。でも、イエスは、「敵を愛せよ」と教えています。この「愛せよ」とは、好きになれという意味なのでしょうか。
新約聖書の中で、聖パウロが愛について次のように語っています。「愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失わず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。愛は決して滅びない。・・・」(コリントⅠ13;4-8)。このように愛は人徳の高さとして示されています。聖パウロが言うように、愛は人間の魂を成長させるエネルギーであり、目標なのもしれません。
かつてノーベル平和賞を受賞したコルカタの聖テレサ、通称マザー・テレサは、「愛の反対は憎しみでなく無関心である」と言っています。また、テレサは「愛は、痛みがともなうもの」とも言っています。人間の関りがある以上、当然、互いが傷つくことはあります。生前マザーは、奉仕活動をしていくなかで、自分たちは与えていない、むしろ貧しい人から与えられていると言っていました。関りにより、自らの成長の糧を得ているのかもしれません。その関りの原動力も、やはり愛なのです。
最後に、マザー・テレサはこう言っています。「神は、私たちに成功なんて望んでいません。ただあなたが挑戦することを望んでいるだけです。」と。人間は神に愛されている。キリスト教の根本の教えであり、旭川藤星高校の建学の精神です。どうぞ他者に対しても自らの目標に対しても数々の場面で努力が求められますが、勇気をふるいたたせて頑張ってほしいと願っています。皆さん一人ひとりに期待しつつ、祈りつつ、待降節(アドヴェント)の話を終わります。